大きな湯葉

について

こどもみたいに

子供が不二家の店頭にあるペコちゃん像の頭を揺らして遊んでいるのを見て衝撃を受けた。私はペコちゃん像の頭を揺らせること知らなかったぞ(多分揺らせないやつもある)。

大人になってむやみに物に触らない分別を獲得したが、その代わりに触ることで得られる気付きを失っている。ビックリして思わずその場に立ちすくんでしまった。不審者でごめん

 

音楽評論を読むつもりが音楽界評論だった。それはそれで面白いけど、どうしても世相についての言及を含んだ評論になりがちで、純粋に音楽の音の面白さとかリズムの面白さについてわかりを得たい時にはちょっと違ったなとなる。面白かったけど。

一部のクリエイターの中で「インターネット、もうよくね?」的な空気がある、という話があった。実際は「インターネット、ガンガンやります!」というクリエイターも全然いるはずだけど、SNSに限って言えば年代に関わらず全体的に衰退の傾向があるということだった。最近のツイッターを見て、もうよくね?となる人はまあまあいるだろう。半生をSNSで過ごしてきたから忘れてたけど、SNSってやめてもよかったのだ。キーボード以外のものも触ったほうが楽しい。そうしたい。

本当に仮面ライダーを知らない人による『シン・仮面ライダー』感想

誘われてシン・仮面ライダーを見てきた。

仮面ライダーの事はほとんど知らない(オタクがオフ会に持ってきたベルトしか見た事がない)ので、何がネタバレになるのかは一切わかりません。そういった配慮は諦めてつらつら感想を書きます。

初っ端からトラックに追われるバイク。平均的な映画では父が死ぬ回想から入りそうなものだけど、庵野はそんなことしない。「もしも自分が山道をバイクで走りながらトラックに追われてたらどうする?トラックは2台」修学旅行の夜、庵野くんが小声でそう話しかけてきた事を思い出します。きみはあの頃の憧れを捨てないまま大人になれたんだね。冒頭1分で思わず後方同級生面をしてしまう。

思ったよりすぐ仮面ライダーが出てきて思ったよりすごい量の血が出る。あまりに景気が良すぎてこの時点で笑顔になりました。執拗に頭を狙っているのが面白すぎる。

博士的な人から諸々の説明を受ける。仮面ライダーってサイボーグ的な存在だったんですね。今でこそトランスヒューマニズムとか言ったりするけど、たぶんオリジナルを放送した時にはトランスヒューマニズムという言葉は無かったか一般に知られてなかったわけで、最初に仮面ライダーを作った人のクリエイティビティに感心する。博士死亡。

勝手に他人を改造する遠慮のなさとは対照的に、元々バイク好きの主人公に戦うバイクを与える優しさが身に染みる。スケボーとかじゃなくて良かったね。

クモオーグでずっと引っ張るのかと思ったら割と早めに泡になって退場。清潔感が好印象。

シン・仮面ライダーは全体を通じて常軌を逸したテンポの良さで、次から次に敵が出てきては泡になる。庵野監督、本当は12時間くらいやりたかったのを頑張って2時間にしたんだと思う。本当は各オーグと部下の農作業とかもやりたかったのではないか。

サソリオーグ、人で倒せるんだ......と思った。これは全くの想像ですが、庵野監督は制服の人間が名もなき公僕としてバッタバッタと死ぬのが好きなのでは?憎いとかではなく、何者にもなれずに死んでしまうことを裏から肯定しようとしているというか。その感性は割と共感できます。

ベルトがインテークになっているからバイクで走らなければならないという説明、拙者のような設定にうるさいオタクにも納得感がありますぞ。後から風なしで始動できるベルトが登場したり、グラボみたいなベルトが登場したりで面白かったね。ベルトのファンが2連になってるのは分かりやすく「倍 !」という感じで笑った。あれならエルデンリングも最高画質で遊べるはず。

個人的には、トンネルで量産型の仮面ライダーが登場するシーンが一番良かった。同じ目のはずなのに不気味に見える量産型のシルエットがぼうと浮かぶのが良かった。庵野監督、量産型好きだね。私も好きです。

トンネル内をビュンビュン走りながら戦うシーンのかっこよさって万国に通じてるんじゃない?たぶん今度のG7でもこういうシーンの良さについて話し合うんだと思います。(フランス語で)

それから何やかんや他人が怖いと碇親子の様なことをいう蝶オーグのプシュ兄(ぷしゅけい)に寄り添うバーチャル妹と1号の優しさに眼球が滑らかになり、仮面ライダーぜんぜん知らないけど面白かったなと思いながら劇場を後にしたのでした。

他にも面白いところ(ロボなど)はたくさんあったが、全く仮面ライダーの事を知らなくても楽しめる良い映画でした。

ベイビーわるきゅーれ2を見るなど

ベイビーわるきゅーれ2を見てきた!ネタバレを避けながらぼんやり感想を書きます。

映画「ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー」ただいま、殺し屋生活。監督:阪元裕吾 主演:高石あかり,伊澤彩織

前作と比べてより邦画っぽい雰囲気になった?でも邦画の(つまんない)セオリーを完全に踏襲するというよりは、一歩抜きん出ようとしてる感じがあって良かった。同監督による『最強殺し屋伝説国岡』の淡々としたユーモラスさがとても好きなんですが、本作はもう少しわかりやすいユーモアで、そこはちょっと物足りないなと思った。←殺してください。

アクションシーンは、最序盤の閉所での銃を交えたインファイトが楽しかった。前作でもそう感じたけどこの映画はインファイトがめちゃくちゃ最高。私はパルプ・フィクションのマシンガンで撃たれて浴室に倒れ込むシーンが大好きなので、浴室で戦ってくれてありがとう!とも思った。

ラストバトルが本当~~~に良かった。美しかったね。LOVEを感じました。

殺し屋ものだけど構成としてはアクション:日常が2:8くらいで、アクション映画であると同時に青春映画でもあるんだなと思った。日常をはみ出すワクワク感も、ダラダラと時間を過ごすことへの憧憬もあるよね、あります。リコリス・リコイルが好きな人は絶対楽しめると思います。

 

それからアキバに一瞬舞い降りて、オタク強歩でシュババと買い物をした。

電車に乗ってたらクリス・カニンガムのステッカーをスーツケースに貼ってる人がいて思わず話しかけそうになったけど、クリス・カニンガムのステッカーをスーツケースに貼ってる人に話しかけるべきではないと思ってやめた。

現実が帰ってきたぞ

今日はホームセンターに行った。ホームセンターとは思えないほどみんなマスクしてた。棒や箱を買い、途中ダブルチーズバーガーを買いそのぬくもりで神経痛を和らげたのだった。いつか斧を買いたいと思っている。本当に必要になった時、かけがえのない存在になると思うから……

基本引きこもりなので外に出ると人の多さでぽんやりしてしまうが、そういう時にしか乗れない思考の波があるような気がして、あえてで酔いに行く向きもある。そういう人、まあまあいるんだろうな。

 

ツイッターがマジで終わっているという話で、問題あるツイの報告も全然機能していないとツイッターから吹く風に聞いたので試しにめちゃくちゃなヘイトを顔真っ赤にしながら報告(本当に最悪な発言だったため)してみたら半日くらいでツイッターのポリシーに違反していないとメールが届いた。マジで終わってます。通知も来たり来なかったりだし。ツイッターやめて、地元のアフリカの楽器で遊ぶグループとかに入ったほうがいいと思った。

 

やるとしたらクイーカがいい(これは南米の楽器だ)

youtu.be

 

 

20230109

今日は常識的な時間に起きたので、部屋の掃除などをしました。植物の世話も。

 

youtu.be

最近繰り返し聴いてる曲です。「海の見える崖」という言葉はかなりいいですね。「海の見える」でぼんやりとイメージした太平洋が、「崖」で一気に日本海側になる感じが。一番好きな地形かも。崖

私はトゥルーマン・ショーが好きなので、「僕の住む世界の果てに 正しい出口がないのだとして」という歌詞が刺さりました。果てに正しい出口があったらいいですね。正しくなくても、せめて劇的な出口であってほしい。誤ってフロリダのワニに食べられるとか。

 

『このテープもってないですか?』を見た。何も知らないままテレビで見てみたかったな。テレビ関係の都市伝説、だいたい4:3じゃないですか?16:9の都市伝説があっても全然いいはずなのに。そういう心意気、勝手に感じさせていただきました。都市伝説の主戦場がインターネットに以降した今、こういうことをテレビでやるのはとてもおもしろいなあと思った。VR界の都市伝説とかももうあるんだろうな。

私も星座になりたいのですが

完全に年が明けてしまいましたね、明けるつもりはなかったんですが。正直私も驚いています。まさか明けるとはね。

2020年以降の世界、全12話のアニメで言うと9話くらい、もしくは第2シーズンの1話という感じですが、今年は水着回とか旅行回とかになるといいですね。

 

まだうまく言葉にできないけど、とにかくぼざろの最終回が良かった。最初から最後まで良かった。ぼ喜多のオタクは全員死んだらしい。

強力な感情を伴って何かを成し遂げる様子はとても美しい。ぼっちの過剰な人嫌いも承認欲求も焦燥感も一つの言語化できない大きな衝動となり、音楽の形をとって発露するその瞬間を私は半笑いでただ眺めることしかできませんでした。(脳のキャパがオーバーして表情筋がおかしくなったため)

結束バンドのみんなの"瞬間"をもっと見せて……

山田が嫌になって抜けたバンドがその後まんまとウケまくってついに紅白に出た時、山田の本気(マジ)の瞬間が見れるかもしれないね。

 

最後の劇中歌『星座になれたら』、ヤバ~~~~~…………『あなたになれたら』じゃないんですよね…………

無理なくぼ→喜多とも喜多→ぼとも読めるのは二人が相補的な関係にあるからで、ここの関係(もしくは因縁)を拾ってくれてありがとうの気持ちがいっぱいになっています。

自分は他人にはなれないというのはごく当たり前の原理で、だからこそ自分の人生を自分らしく生きようと考えるわけですが、一方で他人に強烈な憧れを持つ人にとっては簡単には受け入れられない残酷な現実でもあります。程度の違いはあれど大体の人はそういった葛藤を抱えていて、実際にぼっちは普通に、喜多ちゃんは特別に憧れています。お互いに相手のような人間になりたいと願ってもそれは決して叶わないわけですが、たとえ決定的に離れていて色も明るさも全く異なっていたとしても線で繋がれば一つの星座になれるという希望を見出してくれたのがもう、

 

 

 

もう

 

歌詞の「ひとりごと」の部分、完全に匂わせです。参りました。

キャッチャー・イン・ザ・ライム

キャッチャー・イン・ザ・ライムを読んだ。女子校のラップバトル部の話。絵が良い。コミティアっぽい雰囲気。主な登場人物は4人で、4人とも"語られなかった"人たち。家庭や学校、友人でさえ彼女らを根暗、貧乏人、金持ち、性的少数者といったカテゴリーに当てはめる形でしか語らない。

自主性を育むとか、協調性を育むとか、学校で起きていることはそんな穏やかなことではなく、実際にはアイデンティティーと居場所を巡る闘争だ。そんな中で自分は何者か自分で決定して自分の言葉で語る、そのためにマイクを握る。

「"何かになりたい"ためのHIPHOPじゃねえ!!

隠してる自分の"何か"を晒せっ!!」

一方で、語られた言葉が全てではない。言葉が語られた時、同時に語られなかった言葉も存在する。

数行の詩の背景には教科書を埋め尽くすだけの語られなかった言葉があった。ならば、一瞬の沈黙にはどれほどの「語られなかった言葉」があるのか。社会にはどれほどの「語られなかった人生」があるのか。全2巻で読みやすいのでぜひ直接食らってみてほしい。無言の重みがすごい。

 

明日ぼざろ最終回ですね…………………………………………………